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選択肢に迷ったら、想像できない方へ。変化と学びに満ちたデザイナー人生。

今回は、デザイン本部コミュニケーションデザイン室の室長を務める三井拓郎さんに「パーソナルヒストリーインタビュー」を行いました。半生を振り返りながら、三井さんが大切にしている価値観や信条に迫りました。

※本記事の掲載写真は、在宅勤務への移行前に撮影したものです。


プロフィール

三井 拓郎/Mii Takuro
金沢美術工芸大学を卒業後、大手広告制作会社でマス広告の制作を手掛ける。その後、外資系の広告代理店でアートディレクター、事業会社でクリエイティブディレクターとして広告の制作に携わり、数々の広告賞を受賞。2014年11月、株式会社ビズリーチに入社後、クリエイティブ部の部長に就任。「360°デザイン品質向上」をテーマに掲げ、ビズリーチのクリエイティブ力強化を牽引。現在はコミュニケーションデザイン室の室長として、サービスのマーケティングやコーポレートに関わるクリエイティブの責任者を務めている。


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父の想いを胸に、デザイナーの道へ。

──はじめに、幼少期や学生時代のお話を聞かせてください。

出身は山口県で、双子の兄弟の次男として育ちました。

父はデザイナーとして働いていて、家の中にはデザインに関する書籍や雑誌がたくさんあり、美術館にもよく連れて行ってくれてました。小さい頃からそうしたものを読んだり観たりしながら、世界中のクリエイティブやデザインなどに触れられる環境で、自ずと美しいものを見る目、審美眼が養われたように思います。

また、父は小さい頃から、僕たち兄弟のためによく絵を描いてくれて、僕自身も、兄と一緒に絵を描くことに夢中になっていました。小学生の頃は漠然と、将来は、漫画家など絵に関わる仕事をしたいと考えていました。

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幼少期に描いた絵

──どのようなきっかけで、デザイナーを志すようになったのでしょうか?

父はデザイナーとして、テレビCMや新聞広告、ロゴ作りなど、幅広い仕事をしていたので、そうした父の働く姿を見ながら、次第にデザイナーという職業に興味を持つようになりました。

また、僕が小学生だった80年代は、デザイナーという職業への憧れを持つきっかけがとても多い時代だったと思っています。その頃にCI(コーポレート・アイデンティティ)ブームが起きて、次々と大手企業の新しいロゴが生まれました。街でロゴを見つけるたびに、そこにはどのような意味が込められているのか、謎解きのような感覚で考えるのが楽しくて、自分なりの考えをよく父に伝えていました。

テレビCMも世間的に大きな注目を集めていて、そうしたクリエイティブから新しい言葉や文化が生まれたりしていました。そういった時代背景もあり、当時の僕にとって、デザイナーという職業が魅力的に映ったのだと思います。

──特に印象に残っている作品などはありますか?

父親の本棚から見つけたGrapusというフランスのデザイン集団が制作したグラフィックに強く心を動かされました。言葉が何を意味しているかは理解できなかったのですが、地球が戦闘機や戦車、爆弾を吐き出している、つまり平和を訴えるポスターであることは分かり、言葉の壁や国境を越えて伝わるデザインの力に感銘を受けました。

それをきっかけに、ビジュアルコミュニケーションに面白さを見い出すようになり、中学生の時には既に、東京藝術大学でデザインを学び、その後は電通で広告を作る、という目標を掲げていましたね。高校時代は、美大受験に向けてひたすらデッサンをしていました。

そんな中、受験直前のタイミングで、父が癌を患いました。父が働けなくなってしまったら、大学へ行けなくなってしまうかもしれないという不安もよぎりましたが、ただ、そうした状況の中でも、両親は僕に「大学に行って欲しい」と言ってくれました。もともとは東京藝術大学を目指していましたが、浪人をしなければ合格が難しかったため、国公立で学費が安く、かつ、多数の有名デザイナーを輩出していた金沢美術工芸大学に入学しました。

僕が大学に入学してすぐ、父は他界しました。父は、僕が美大に入学したことをすごく喜んでくれていました。父は当時44歳で、まだまだ自分自身でやりたいことや叶えたい夢がたくさんあったと思っています。あの時に僕は、そうした父の想いを継いで、父に誇れるようなデザイナーになろうと決意しました。今、自分が45歳になって、あの頃の父の年齢を超えたことを考えると、とても感慨深いです。


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社内勉強会に登壇した時の一枚


波乱万丈のデザイナー人生、そしてビズリーチとの出会い。

──大学卒業後の経歴について教えてください。

大学卒業後、大手家電メーカーのハウスエージェンシーである広告制作会社に入社しました。学生の頃は、自分の実力はそのまま社会に出ても通用すると思い込んでいたのですが、いざ働き始めてみるとまるで通用せず、鼻をへし折られたような気持ちになったのを覚えています。

右も左も分からなかった社会人1年目の僕は、当時の会社や上司から、デザインの知識や広告の作り方をはじめ、本当に多くのことを教えてもらいました。その上司はとても努力家で、日々誰よりも学び続けている方でした。そうした環境から得た学びは、今の僕自身の礎となっています。

また、会社の慣習としてとても印象的だったのは、予定表のホワイトボードには、自分のネームプレートが「三井事務所」というように、名前の後ろに「事務所」とついてました。これは、「一人一人が個人事務所の代表であるという意識を持ち、一つ一つの発言や行動に責任を持って欲しい」という会社からのメッセージングでした。僕はこの考え方を、Visionalの新卒デザイナーに、日々の仕事を通して伝えています。

27歳の時に、デザイナーからアートディレクターとなり、一つのプロジェクトの責任者を任されるようになりました。広告賞なども受賞し、少しずつ自信をつけることができました。そしてそのタイミングで、新しい挑戦として、外資系の広告代理店へ転職しました。その後、結婚しマンションを購入したのですが、まさにその直後のタイミングでリーマンショックが起きて、仕事を失うことになりました。当時の広告業界の状況は深刻で、何をやってもうまくいかない時期が一年近く続きました。

当時は、「なぜ自分がこんな目に遭わなければならないんだ」というモヤモヤとした気持ちを抱えていました。しかし時間だけはたくさんあったので、次第に、「自分はもっとパフォーマンスを発揮できたのではないか?」「もっと会社にとって必要な存在になるために、努力する余地があったのではないか?」というように、少しずつ、客観的に自責で考えるようになりました。そこからは物事が好転していったように思います。2009年、いくつかご縁があった内の一つである外資系の事業会社に入社しました。

英語ができない唯一のマネージャーとして、海外出張や初めての経験ばかりで苦労もありましたが、英語が満足にできない自分を助けてくれたのはデザインでした。自分のこれまで作ってきたポートフォリオを見せると、自分がどういう人間なのか理解してもらえ意思疎通ができました。自分の原体験にも通じますが、年齢や国籍に関係なく分かり合えた瞬間だったように思います。

事業会社での仕事にも慣れてきた2014年、突如、日本支社がクローズしてしまうという出来事が起こりました。ただ、リーマンショックの時の経験があったので、必要以上に焦ることなく、ご縁をいただいたスタートアップ企業で再スタートすることができました。

これまでのデザイナー人生において、多くの浮き沈みを経験しながら、何度も失敗や挫折をしたり、困難に直面することがありました。そうした経験から、僕は「過去は変えられないが、それを学びに変えられる。」と確信しました。この言葉は、僕の中で大切にしているクレドの一つとなっています。

──ビズリーチへ転職するまでの経緯について教えてください。

そのスタートアップ企業で働き始めてから数ヶ月後、以前から何度かお声がけをいただいていたビズリーチから再び連絡をいただき、一度話を聞いてみることにしました。

そして、永田(信)さん(ビジョナル・インキュベーション株式会社 代表取締役社長)や竹内(真)さん(ビジョナル株式会社 取締役 CTO)から、「本格的にデザイン組織を立ち上げるために、力を貸して欲しい」というお話を受けました。話を聞いていくうちに、2014年当時のビズリーチは、まだ200名規模の会社で、デザインにまつわる仕組みや組織が整っていないことが分かりました。

当時、40歳を目前としていたので、普通であれば安定を望むような年齢かもしれませんが、一方で、「これだけ波乱なデザイナー人生を歩んできからこそ、もう何も恐いものはない」「もっと新しいチャレンジをしたい」という想いも湧き上がってきました。そして、2人の話を聞いていくなかで、ビズリーチという会社に大きな可能性を感じ、数年後、良い意味でも悪い意味でも自分や会社がどうなっているのか想像できない方へ賭けてみたいと思い、入社を決めました。あれ以来、「選択肢に迷ったら、想像できない方へ」は、僕が大切にしているもう一つのクレドです。


事業会社におけるデザインの可能性を追求し続けていきたい。

──実際に、入社してみてどのようなことを感じましたか?

「想像できない方へ」懸けてみたいという想いで入社を決めましたが、実際に入社してから、数々の想像もしていなかったことに挑戦する機会をいただきました。

その一つが、50名を超える組織のマネジメントです。もともとプレイヤーとして貢献していくつもりだったのですが、組織の拡大に伴う変化がとても大きく、入社から半年後にマネージャー、その半年後には部長を務めることになりました。それまでほとんどマネジメントの経験がなかった自分にとって、これは大きな学びのきっかけになりました。

また、2016年から放映が開始された「ビズリーチ」のテレビCM制作にも携わらせてもらいました。実は、入社前の面談で、竹内さんが、僕のポートフォリオのテレビCMの実績を見ながら、「うちもいつかテレビCMを作れるようになったらいいんですけどね」と笑いながら話していたのですが、その2年後、まさか「ビズリーチ」がテレビCMに挑戦し、また、そのプロジェクトに自分が携われることになるとは想像もしていませんでした。会社や事業にとって、一つのターニングポイントとなったプロジェクトで、とても深い思い入れがあります。

──その他に、どのようなプロジェクトに取り組んできましたか?

2015年頃に、「360°デザイン品質向上」というテーマを掲げて、ビズリーチのブランドを向上させるためのプロジェクトに取り組みました。当時のビズリーチは勢いがある一方で、デザインの観点からすると、一つ一つのクリエイティブの細部までデザイナーのこだわりが行き届いていない状態でした。そうした問題意識に加えて、会社としてのブランドを高めていくためには、プロダクトのデザインだけではなく、広告や、社員の名刺や営業資料、社内の掲示物、もっというと、一人一人の社員の言動や行動など、企業活動におけるあらゆる要素におけるデザインの品質を担保していかねければならない、という考えもありました。

こうした想いから「360°デザイン品質向上」というテーマを掲げて、一つ一つ改善を進めてきました。このように、あらゆるコミュニケーションのチャネルを、一気通貫でデザインして、ブランドを確立させていくことは、まさに事業会社で働くデザイナーならではの醍醐味だと思っています。

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Visionalのデザイン哲学「We DESIGN it.」

また、ビズリーチに入社してからは、自分自身が手を動かしてデザインしたものは少ないのですが、Visionalのデザイン哲学「We DESIGN it.」のロゴは、自分が作ったクリエイティブとしてとても印象に残っています。5年前、デザイン組織を受け持った時に漠然と考えていたことが、こうしてデザイン・フィロソフィーとして形にできたことは感慨深かったですね。

──現在は、どのようなことに挑戦しているのでしょうか?

デザインの品質レベルを定量的に可視化する「デザイン評価モデル」の試験運用を進めています。デザインを定量的に評価することはとても難しいですが、逆に、デザインの品質基準がないことで、ブランド毀損のリスクが発生してしまいます。そうしたリスクを排除し、中長期的に会社としてのクリエイティブの品質を高めていくために、一つ一つのデザインの品質レベルを数値で表す仕組みを作っています。

──どのようにして、デザインの品質レベルを可視化しているのでしょうか?

コミュニケーションデザイン室のデザイナーが作ったものは、週に3回開催されるデザイン承認会議で承認されることによって初めて世にリリースされるフローを作りました。この承認会議では、「ブランド維持」「ユーザーゴール達成」「ビジュアルデザイン」という3つの観点で審査をし、それぞれの項目での承認率を算出し、出口におけるデザインの品質基準を定めるというものです。

この「デザイン評価モデル」が正しく機能するようになれば、デザインがVisionalのブランドを守り、そしてより強いものにしていくことができると思っています。そしてゆくゆくは、デザインの品質向上が、どのように事業に貢献していくかを客観的に説明する仕組みを構築していきたいと考えています。

──最後に、三井さんが、今後Visionalで挑戦したいことについて教えてください。

事業会社におけるクリエイティブの可能性を、これからも追求し続けていきたいです。もちろん、企業活動を進めていくうえでは、広告代理店などのパートナーの力を借りる必要はありますが、僕たちは、単に一時的な認知拡大や売上だけを目指すのではなく、中長期的な目線でVisionalのブランドを作っていかなければいけません。その意味で、事業会社におけるデザインの可能性は、まだまだ探れるはずです。そして、そうした可能性を追求していくことが、一緒に働くコミュニケーションデザイン室の仲間たちのWillや、Visionalにおけるキャリアにつながっていくと思っています。

また、後継者の育成にも注力していきたいです。僕は、人よりも浮き沈みの激しいデザイナー人生を歩んできましたが、一緒に働く仲間たちには、しなくてもいい経験はさせたくありません。だからこそ、これまでの学びをもとにアドバイスしながら、ゆくゆくは自分がいなくても回っていく組織や仕組みを目指していきたいです。

──本日は、ありがとうございました!

いえ。先ほど「過去は変えられないが、それを学びに変えられる。」という僕の大切にしているクレドの話をさせていただきましたが、こうして改めて振り返ったことで、失敗や挫折といった「過去」は変えられないですが、それがなければ「今ここ」にはいないわけですし、そこには必ず新しい出会いや学びがあったことを再確認できました。これからのデザイナー人生においても、想像できない未来を目指して貪欲にチャレンジしていきたいと思っています。

こちらこそ、ありがとうございました。


この記事の執筆担当者

松本 侃士/Matsumoto Tsuyoshi
1991年生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。2014年、音楽メディア企業に新卒入社し、音楽雑誌・ウェブサイトの編集や、採用などを経験。2018年、株式会社ビズリーチへ編集者として入社。現在は、人財採用本部・採用マーケティンググループで、「ALL VISIONAL」の運営などを担当している。


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