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正しく、誠実に。CIO 園田、「守り」のエンジニアとしての哲学を語る。

今回は、2020年2月より、VisionalのCIO(Chief Information Officer)を務める園田剛史さんに「パーソナルヒストリーインタビュー」を行いました。半生を振り返りながら、園田さんが大切にしている価値観や信条に迫りました。


プロフィール

園田 剛史/Sonoda Takeshi
2002年、芝浦工業大学システム工学部卒業後、富士フイルムソフトウエア株式会社に入社し、開発業務に従事。2004年より株式会社オプトで、法人向けWeb広告効果測定ツール等を開発。ビカム株式会社(現:株式会社メタップスワン)を経て、ビズリーチの創業準備期に参画。執行役員に就任後、ビズリーチや新規事業の開発責任者などを歴任し、2020年2月、現職に就任。


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※この写真は、在宅勤務への移行前に撮影したものです。


ものづくりへの興味関心。そして、プログラミングとの出会い。

──今回は、園田さんのこれまでの人生を遡りながら、大切にしている価値観や信条に迫っていきたいと思っています。会社立ち上げ期のお話も聞かせてください。よろしくお願いします!

語れることは特にないですよ。よろしくお願いします。

──まず、幼少期や学生時代のお話から聞かせてください。

僕が生まれたのは、いわゆるサラリーマンの家庭ではなくて、父親は建築士、祖父は熱海で板前の仕事をしていた人でした。父親が家で図面を書いていたり、祖父が家で魚をさばいていたりそういう姿を見てました。だから小さい時から、将来自分がスーツを着て仕事をする、というイメージは持っていませんでしたね。

──当時を振り返って、どのような子どもだったと思いますか?

どちらかというと、クラスで目立つタイプというよりも、目立たないおとなしいタイプ、なんとなく裏からサポートするタイプでした。部活の副部長とか副リーダーをやることも多かったです。あとは小学生の頃の掃除の時間、みんなが気付かないようなところを見つけて綺麗にすることにこだわっていました。些細なところを気にしてしまう性格は、今も変わらないかな。

──当時は、どのようなことに興味を持っていましたか?

保育園の頃は、ブロック遊びが好きで、一人で黙々と遊んでいられました。その頃から漠然と、「ものを作ることが楽しい」という感覚はありました。

ただ、学生時代から明確にやりたいことがあったわけではなくて。子どもの頃「将来の夢は何ですか?」という質問がとても苦手で、特に何かやりたいことがあったわけではないですね。友達がサッカー選手などと答えていて、「夢があっていいなー」と思ってました。

「興味があって何かをやってみた」というようなことはあまりなかったと思いますが、「やってみたら楽しかった」ということが多かった気がします。たとえば、小学生の時に放送委員の子が転校してしまい、「代わりに園田やれっ」てなって、最初は嫌々でしたが、やってみたらすごく楽しくて。中学生の時も放送委員をやってました。

振り返ってみると、自分の意志とは関係なくやらなければいけないことが降ってきて、それを一つずつ経験しながら「できること」「得意なこと」が増えていき、その先に、自然と次の「やりたいこと」を見つけながら歩んできたのだと思います。仕事をするようになっても、そのスタンスは変わらない気がします。

──大学ではどのようなことを学んでいたのですか?

数学と物理が得意だったので、機械制御システム学科に入学して主に機械系を学んでいました。ただ、大学1年生の時にプログラミングの授業があって、それがきっかけでプログラミングにどんどん興味を持つようになりました。「入る学科を間違えたかも」と思いましたね。

C言語からプログラミングを始めて、授業以外でもプログラミングをしたりしていたので、漠然とソフトウェア開発に携わるような仕事がしたいと思うようになりました。研究室でも実験の計測を楽にする画像解析ツールとか作ってました。

──就職活動の時は、具体的にどのような会社で働きたいと考えていましたか?

大学で4年間、美術工芸部に入っていて、絵を描いたりはあまりしませんでしたが、動画制作や3Dモデリングなんかもかじっていました。なので、エンジニアとして働きながら、そうした画像関連の領域にも携わることができる富士フイルムソフトウェアへ入社しました。

入社後、新人研修で改めてプログラミングの基礎を学んで、写真店で利用される現像機のソフトウェア開発などを担当していました。

なので、実はキャリアの最初からWebエンジニアだったわけではなかったんですよね。

──Webエンジニアになったターニングポイントはいつだったのでしょうか?

ターニングポイントは、インターネット広告代理店のオプトに転職した時でした。転職した2004年は上場直後のタイミングで、当時社員数は100名弱、3人目のエンジニアとして入社して、広告配信&効果測定ツールの開発に携わりました。

転職当時、Web系やLinux関連の知識がほとんどなかったので、初めは苦労しました。入社翌日、上司から「とりあえず、ターミナルでSSHでサーバーに入って。鍵はこれ。」と言われても意味が分からず、「誰だ、こいつを採用したのは」と言われた記憶があります。それも今となっては良い思い出です。

ただWeb系の開発が自分に合っていたようで、新しい知識と経験を積み上げていくのは面白かったです。サーバーサイドの開発からサーバー構築、ネットワーク構築など幅広く業務を任せてもらえるようになりました。少しずつ「できること」「得意なこと」が増えていく過程は、とても楽しかったですね。

またオプトでは、開発に加え、サービスの運用の仕事も担当しました。富士フイルム時代は運用は担当していなかったのですが、ここで運用の仕事を初めて経験することで、運用しやすいプロダクトを作らないといけないということ、作ったサービスを継続的に価値を提供していく感覚を覚えることができました。運用の仕事は、泥臭くて、なかなか評価されにくい面もありますが、事業の面から見ても、とても大切な仕事だと感じました。


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南との出会いから2年を経て、ついにビズリーチへの参画を決意。

──その後、オプトでは、プロダクトマネージャーを経験していますね。

はい。事業が拡大する中で、開発を一部外注することになり、そこで、自らエンジニアとして働きながらも、メインはプロダクトマネージャーとしての仕事を担当していましたね。

その経験もとても貴重なものでしたが、ただ、自分が技術の最前線から離れるのが嫌だったので、仕事とは別で、個人でWebサイトをいくつか立ち上げたりしていました。そしてこれが、僕が南(壮一郎)さんと出会うきっかけに繋がったのです。

2008年2月のある日、「ビズリーチ」サービスの立ち上げのためにエンジニアの仲間を探していた南さんから、一通のメールが届きました。僕のWebサイトを見て、興味を持ってくれたんですよね。

メールに書かれていた南さんの経歴を読んで、興味本位で返信すると、僕が当時働いていた大手町まで来てくれました。そして、「インターネットの力で、世の中に大きなインパクトを与えられるような事業を作りたい」という南さんの構想に、少し興味を持ちました。

次の週には、「ビズリーチ」サービスの立ち上げのブレストに参加しました。そのブレストの場には南さんの声がけによって様々な領域のプロフェッショナルが集まっていて、その中に2番目の社員となる(佐藤)和男さんもいました。僕自身、それまで事業立ち上げのブレストを経験したことがなかったので、とても楽しく、また、その時間を通して南さんの熱い想いを感じました。

そして、「何かあったら手伝いますよ」という軽い感じで、徐々に「ビズリーチ」サービスの立ち上げに携わるようになりました。

──ただ園田さんは、そのままビズリーチへジョインすることはなく、別の会社へ転職されましたね。

はい。当時は2人目の娘が生まれたばかりで、家族の生活を守ることを第一に考えていたので、すぐにビズリーチにジョインするという決断はできませんでした。

その後、僕はオプトからビカムに転職したのですが、それでも、サポートという形で「ビズリーチ」サービスの立ち上げには関わり続けていました。

──当時の「ビズリーチ」サービスの開発を振り返ってみて、印象に残っていることはありますか?

今でも覚えているのが、あるタイミングで竹内(真)さんがジョインしたのですが、サービスのリリースを2ヶ月後に控えた時、彼は、それまでのプロダクトを「0から作り直す」と言ったんですよね。確かに、それまでは開発を外注しており、かつプロジェクトをマネジメントできないまま突貫で開発を進めていたため、当時のシステムは一応動いていたものの正直イマイチなものでした。南さんもその出来に納得はしていなかったと思います。作り直したい気持ちは分かるものの、「一人で2ヶ月で完成させるのは無理だ」と僕は反論しました。それでも竹内さんは「できる」と言って、結果として2ヶ月でサービスを完成させたんですよね。

僕は、そんな竹内さんを一人のエンジニアとしてリスペクトしました。そして竹内さんだけでなく、南さん、和男さん、永田(信)さん、そして広報の(田澤)玲子さんというように、「携わっていた人全員が一線級のスペシャリストで、すごく頼もしいチームである」ということを、一緒に働きながら思っていました。

──最終的に、どのような経緯で、ビズリーチへのジョインを決断したのでしょうか?

初めて南さんに声をかけてもらったのが2008年で、それからお手伝いで参加するなかで、何度も南さんからオファーをもらっていました。ただ、先ほどもお話したように、僕には守るべき家族がいたからこそ、一定の距離を保ち続けていたんですよね。

ただ、「ビズリーチ」サービスの立ち上げ期に身を置くなかで、少しずつ気持ちが変化していきました。いつしか、南さんや竹内さんをはじめ、「優秀で信頼し合える仲間とともに働きたい」という想いが強くなっていました。そして、2010年1月、ビズリーチに入社を決めました。

今から振り返ると、当時の自分は、本当に思い切った決断をしたと思います。子供が二人いるのにマンションの一室で数名で経営するスタートアップに転職するなんて、今考えてみると思い切った行動だと思いますが、ただ当時は不安な気持ちはなく、とにかく「この優秀な仲間たちと働いてみたい」「この人たちとなら大丈夫」という気持ちが強かったんですよね。


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バレンタインの時に、チームの仲間たちからプレゼントされたチョコレート


正しく「守る」仲間たちが、正しく評価される組織を作りたい。

──その後、サービスの拡大と新規事業の立ち上げに合わせて、エンジニア組織もどんどん大きくなっていきましたね。

はい。幸いなことに、ビズリーチには、豊富な経験を持つエンジニアが続々と集まっています。

キャリア入社の方からよく言われるのですが、ビズリーチのエンジニア組織の特徴として、一人一人が仲間に対して協力的であることが挙げられると思っています。誰かが新しいことに挑戦しようとすると、みんな協力的にサポートしてくれます。これは、エンジニア組織に限らず、各職種に共通していえることかもしれません。また営業と企画と開発がフラットな関係で、お互いをリスペクトし合う文化が浸透していると思っています。

──そうした文化が浸透している理由について、園田さんはどのように考えていますか?

「ビズリーチ」サービスがリリースされる前に、南さん自身が、プロダクト開発において一度失敗していることが大きいと思います。当時は開発を外注して、その結果として竹内さんが2ヶ月で0から作り直すことになったんですよね。

南さんは、その失敗からエンジニアの価値を理解し、エンジニアにリスペクトを払うカルチャーを根付かせようとしてきたのではないかと思っています。もちろんエンジニアだけでなく、あらゆる職種にも同じことが言えます。

そして今思えば、ビズリーチは、「経営」と「営業」を担う南さん、「企画」を担う永田さん、「開発」を担う竹内さん、というように、それぞれの領域のプロフェッショナルたちが集まって始まった会社なので、自然と、異なる職種の仲間を尊重するカルチャーが浸透しているのかもしれませんね。

──約10年間にわたってビズリーチで働くなかで、園田さんは、ご自身のことをどのような役割を担うエンジニアだと考えていますか?

「攻め」か「守り」かだったら、僕は「守り」を担うエンジニアだと思います。

たとえば、竹内さんは「攻め」の役割を担ってくれていると思っていて。社内で最もビジョナリーなタイプで、思い描いた構想を明確に言語化して、組織の進むべき方向性を打ち出してくれています。組織は自然と現状に合わせた最適化の方向に向かっていきますが、それが行き過ぎると、その先にあるのは変化に弱い多様性のない組織であったり、停滞感のある組織であると思っています。竹内さんは常に、それに対するカウンターとしての役割を果たしてくれていると思います。

一方、自分の役割は「守り」だと思っています。

野球の話に例えると、走り込んでボールをキャッチするとファインプレーになると思いますが、本来は、そもそも打たれないほうが良いし、仮に打たれたとしても、派手に走り込むことなく、ボールが落下する位置に最初から待ち構えているほうが良いですよね。

派手なファインプレーよりも、これから訪れるであろう負荷や障害を見越して事前に対応して、もしトラブルがあったとしても、問題なくシステムを運用できるよう予め整備していることに、僕は美しさを感じるんですよ。

運用でシステムの稼働率を目標に置くこともあり、稼働率100%とか99.99%という結果も大事ですが、それよりも大事なのは、稼働率を維持するため、向上するためにどんな準備や対策をしているかがより重要だと思ってます。

本当に大切なのは、障害を起こさないように常日頃から改善をしていくこと、もし障害が起こった場合もスムーズに対応できる体制を整えておくことです。川の流れのように、澱みなくシステムが開発運用されている状態が僕の一番の理想形です。

──なるほど。まさに、「守り」のエンジニア哲学ですね。

これは僕の「あまり表には出ていきたくない」という性格が表れているのかもしれません。小学生の時から、裏からサポートするタイプだったので。

また、「守り」について、もう一つ抱いている強い想いがあります。

いわゆる「攻め」の機能追加だったり売上にダイレクトに貢献する開発は称賛を浴びやすいと思いますし、もちろんそれはそれで素晴らしい仕事ですが、ただ一方で、一般的に保守や運用の仕事はなかなか評価されにくいと思っていて。

これは僕自身の想いですが、そういった地道な貢献もしっかり可視化、数値化して、ちゃんと評価できるエンジニア組織を作っていきたいと思います。

地味に地道に価値あることをやってくれてるエンジニアが評価されないのは嫌なんですよね。だからこそ僕は、「攻め」の仕事はもちろん、「守り」の仕事が正しく評価される組織を作りたい。幸いなことに、南さんや多田(洋祐)さんをはじめとする経営層も、エンジニア組織における「守り」の重要性を理解してくれているので、この会社であれば僕の想いを実現できると思ってます。

また、「攻め」「守り」の二元論で話してしまっていますが、本質的にはエンジニア全員が「攻め」も「守り」も考えるべきだと思っています。「開発しながら運用のことも考える」「運用しながら開発生産性を上げていく」というように、両方がしっかりしているからこそ、ガンガン攻められるような組織にしたいですね。

──園田さんは、2020年2月、ビズリーチが新たにグループ経営体制に移行したタイミングで、VisionalのCIOに就任しましたね。最後に、CIOとしてのミッションを教えてください。

Visionalのプロダクトの信頼性と生産性の向上です。

具体的に説明すると、竹内さんが記事で書いていたように、「非機能要件」などの当たり前の品質を向上させていくこと、「技術的負債」と呼ばれるものが溜まらないようにすること、中長期的にプロダクト、エンジニア組織、そして事業が成長できる体制を整えることが、僕のCIOとしてのミッションです。

プロダクトの信頼性や生産性などの品質は非常に見えにくく分かりづらいんですが、可能な限り数値化・可視化して、その指標をもとに改善が回り品質が向上するといった環境を作っていきたいです。そして守りを強化することで、より攻めの開発がしやすくお客様により価値提供できる状態にしていきたいと考えています。

Visionalでは、複数の事業を運営しています。事業横断の立場からそれぞれのプロダクトの品質を上げ、各事業の勝率が上がるような動きをしていきたいと思っています。

──今日は、ありがとうございました!

こんな話ですみません、まとまりがなくて。ありがとうございました。


この記事の執筆担当者

松本 侃士/Matsumoto Tsuyoshi
1991年生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。2014年、音楽メディア企業に新卒入社し、音楽雑誌・ウェブサイトの編集や、採用などを経験。2018年、株式会社ビズリーチへ編集者として入社。現在は、人財採用本部・採用マーケティンググループで、「ALL VISIONAL」の運営などを担当している。


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