COO 村田、果敢に「変化」に立ち向かい続けた半生を語る。
今回は、VisionalのCOO(Chief Operating Officer)を務める村田聡さんに「パーソナルヒストリーインタビュー」を行いました。半生を振り返りながら、村田さんが大切にしている価値観や信条に迫りました。
※本記事の掲載写真は、在宅勤務への移行前に撮影したものです。
プロフィール
村田 聡/Murata Satoshi
2002年、青山学院大学法学部卒業後、GMOインターネット株式会社に入社。その後、Viacom International Japan 株式会社(現:バイアコム・ネットワークス・ジャパン株式会社)などで事業開発やマーケティング部門の責任者を歴任し、2011年、株式会社ルクサ(現:auコマース&ライフ株式会社)の代表取締役社長に就任。その後、2019年より株式会社ビズリーチの取締役COOを務め、2020年2月、現職に就任。
数々の「変化」に、しなやかに適応し続けてきた学生時代
──まず、幼少期や学生時代のお話から聞かせてください。
生まれは東京だったけれど、親が商社に勤めていたので転勤が多かった。それこそ、小学生の時は、ずっとアメリカのニューヨークで過ごしていたね。
──小学校に入学するタイミングで海外へ引っ越した時は、新しい環境での生活に不安は感じませんでしたか?
気にならなかったね。親が放任主義なタイプで、アメリカに引っ越してすぐに、現地校のサマーキャンプに行かせられて。まぁ、こんなもんだと思ったね。
言語の壁もほとんど感じなかった。意思疎通は、大人になればなるほど伝わりにくくなるものだと思うけれど、子供の頃はボディランゲージである程度伝わるからね。
──ニューヨークで過ごした小学校の生活を振り返ってみて、いかがですか?
学年に日本人が2人くらいしかいなかったので、マイノリティであることが当たり前だった。だから、当時はあまり意識したことはなかったけれど、明確に線引きされることもあった。ただ、何か言われても言い返すだけだったね。
──村田さんは、ニューヨークの小学校(Elementary school)に通った後、日本に戻られていますよね。
そうだね。ただ、ニューヨークの小学校を卒業したものの、日本とは学年のカウントの仕方が異なるので、6年生として小学校に入る必要があった。親は「行きたくなかったら行かなくてもいい」と言っていたんだけど、義務教育だからどこかの学校に入らなければいけなくて。それで、神戸の小学校に入学したね。
──東京で生まれた村田さんにとっては、関西も一つの新しい環境だったかと思いますがいかがでしたか?
関西のノリは自分と合ったから面白かったね。
──村田さんのお話を聞いていると、どのような環境の変化も恐れることなく、しなやかに順応していることが分かります。逆に、当時、怖かったものや嫌いだったものはありましたか?
雨が降ったら学校に行くのが面倒だな、と思ったくらいだったね。
強いて言えば、無駄なことや、非効率なことは好きではないかな。僕は何事においても「最適化」されていることにこだわるようにしている。
学生時代の夏休みを例に挙げて説明すると、いつまでも宿題が残っている状態はストレスが溜まるので、自分が自由に使える時間を最大限充実したものにするために、面倒な夏休みの宿題は真っ先に終わらせてしまうタイプだった。
──神戸の中学校生活を振り返ってみて、いかがですか?
帰国子女だったから、先生や友人から過大評価されることが多かったかもしれない。体格も大きくて、その上、部活やイベントにも積極的に参加するタイプではなかったから、近寄りがたいオーラは出ていたと思う。ただ、仲が良い友人たちがいたので、中学校生活は楽しかったね。
中学時代の大きな出来事としては、卒業を目前に控えた中学3年生1月に、阪神淡路大震災を経験したこと。地震発生から2~3週間は、とにかく日々の生活のために水を集めることに必死だった。それに、親を亡くした友人もいた。結局、卒業まで学校へは一度も行けなかった。
──その出来事を、当時の村田さんはどのように受け止めていたのでしょうか?
どう足掻こうとしても抗えないことはあるし、限られた条件の中で、一つずつできることをするしかないなと。もちろん苦しくて辛い経験も多かったけれど、海外での生活を含めて環境が変わり続けることには慣れていたから、そういうものとして受け止めていたと思う。
──中学卒業後、親の仕事の関係で東京へ引越しして、東京の高校へ入学されていますよね。これも大きな環境の変化だと思いますが、当時、何か思うことはありましたか?
東京は線路がたくさんあるから迷うな、ぐらいだね。
──大学時代は、どのように過ごしていましたか?
広告代理店や芸能関連の方と知り合う機会が多くて、そうした年上の人たちによくかわいがってもらっていて。知らない人に話しかけるのは苦手ではなかったし、何より、普通に過ごしていたら接点のないような世界について、いろいろ教えてもらえることが刺激的で楽しかったね。
あとは、大学時代はバックパッカーとして世界中を旅することが好きだった。明確な目的を定めるわけでもなく、毎回「ちょっと出かけてみよう」という気分で旅をしていた。
一人旅なので、現地の人に話しかけて、ご飯をご馳走になったり、ガイドマップに載っていないような場所を案内してもらったり。今から思えば、時には、命の危険を感じるようなシチュエーションもあったけれど、当時は「まぁ、最後に帰れればいいや」ぐらいのテンションだった。
大学を卒業してしばらく経った後も、バックパッカーは続けていたね。
バックパッカーとして旅行している時の写真。なお、トップ写真は、30歳の頃にアルゼンチンに行った時に撮影したもの。
インターネットの可能性に惹かれ、ITの世界へ
──小学生時代~大学生時代まで、数々の「変化」を経験されてきた村田さんですが、就職活動の時は、将来のキャリアについてどのように考えていましたか?
そもそも僕は、「新卒社員として会社に入社する」というルートを選ばなかったんだよね。大学生の時からフリーランスとして働いていたので、少なくとも自分にとっては、「新卒入社」という選択肢は合わないなと思っていた。それで、大学を卒業した後も、バックパッカーとして旅行を続けていて。
いざ仕事に就こうと考えたのが2003年。当時、まだ黎明期だったインターネットを活用したベンチャー企業で働きたいと思い、GMOインターネット株式会社に入社した。もともとはWebマーケティング担当だったけど、新規事業の立ち上げや上場対応など、いろんなことを経験したね。
──その後、村田さんは何度か転職をされていますよね。会社選びの軸について教えてください。
僕が仕事を選ぶ上でのテーマは、「インターネットの可能性をどう活かせるか」ということ。例えば、知人の紹介で入社した株式会社セレクトスクエアでは、「アパレル×EC」というテーマに取り組んだ。
その次には、EC事業「LUXA」を手掛ける株式会社ルクサ(現:auコマース&ライフ株式会社)で、インターネットだからこそ実現できる新しいショッピングの「体験」の提供に挑戦してみた。
──株式会社ルクサは、もともと株式会社ビズリーチの中で立ち上がったEC事業が、分社独立して生まれたものですよね。ビズリーチとの出会いについて教えてください。
もともとは、ビズリーチが創業して間もない時期に、永田(信)さんから「困っているから手を貸してくれないか」と声をかけてもらって。永田さんとは、セレクトスクエアで一年くらい一緒に働いていた仲だったので、その縁もあり手伝うことになって。
その後、新しい事業として「LUXA」が生まれて、僕自身の経験を活かせる事業だったから、そちらに携わるようになったんだよね。それに、もともと僕はECの世界も経験していたからこそ、この「LUXA」という事業を通じて、業界の構造的な負のスパイラルを解消できるのではないかと思った。
「LUXA」に投資して頂いたグローバルブレイン・立岡さんとKDDI投資担当部長・斎藤さんとの写真。
──村田さんは、2011年、ルクサの法人化のタイミングで代表取締役社長に就任され、その後、2019年に株式会社ビズリーチに戻られました。その経緯について教えてください。
当時、もともとは別の新しい会社を立ち上げようとしていたんだよね。それに、他の企業に入社して新しいテーマに挑戦するという選択肢もあった。
それでもビズリーチに再び入社する決断をした理由はいくつかあって。その一つが、株式会社ビズリーチの新しい社長に就任した多田(洋祐)さんと話したことだった。
もともと僕は、メンターとして定期的に彼の相談に乗り続けていて、話を聞くなかで、会社が急激な成長続けるにつれて新しい課題が増えてきている一方で、この会社には、まだまだ想像もできないような可能性があると感じた。
それまでは外部メンターとして手伝ってきたけど、もう一度しっかりコミットしたいという想いが強くなって、再び入社することを決めた、という経緯だね。
最大のミッションは、成長のための土台を整え、後継者を育てること
──2020年2月、私たちはグループ経営体制への移行に伴い、Visionalとして新しいスタートを切りました。VisionalのCOOとしてのミッションを教えてください。
一言で言えば、将来の更なる成長のための土台作りだね。
土台を「作る」というよりも、「整える」というほうがニュアンスとしては近いかな。でも、「作る」ことも「整える」ことも、僕からすると同じだと思っている。
僕は仕事をする上でも、「最適化」を一つのポリシーとしていて。Visionalにとっての在るべき姿を描いた上で、そこを目指して、一つ一つの事業や組織を改善していくこと。足りないものは作るし、要らないものは削って整えていく。ダメならまた土台ごと作り直す。何事も、その「最適化」の繰り返しでしかないんだよね。
今、Visionalでは、急成長に伴う劇的な変化を重ね続けているがゆえに、それぞれの事業や組織において歪みが生まれてしまっている。だからこそ今は、そうした課題に、仕組み化や社員の意識変革といった打ち手を通して、土台を整えている真っ最中。各論でいえば、やらなければならないことはたくさんある。
それと何よりも大事なのは、いつでも経営のバトンをパスできるように、後継者を育成すること。会社が成長するための土台を整え、後任となる仲間に未来を託すことこそが、僕自身の一番大切なミッションだと思ってる。
──本日は、お忙しいところお時間をいただきありがとうございました!
いえいえ、お疲れさまです。ありがとうございました。
この記事の執筆担当者
松本 侃士/Matsumoto Tsuyoshi
1991年生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。2014年、音楽メディア企業に新卒入社し、音楽雑誌・ウェブサイトの編集や、採用などを経験。2018年、株式会社ビズリーチへ編集者として入社。現在は、人財採用本部・採用マーケティンググループで、「ALL VISIONAL」の運営などを担当している。
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