甲子園を目指した「夏」。その次の可能性を信じて、学び続け、変わり続ける。
今回は、2016年4月にビジネス職として新卒入社し、現在は、株式会社ビズリーチのビズリーチ事業部所属の杉本理さんに「パーソナルヒストリーインタビュー」を行いました。
半生を振り返りながら、杉本さんが大切にしている価値観や信条に迫りました。
※本記事の掲載写真は、在宅勤務への移行前に撮影したものです。
プロフィール
杉本 理/Sugimoto Satori
山口県岩国市出身。早稲田大学を卒業後、2016年4月に新卒で株式会社ビズリーチに入社。ビズリーチ事業において新規開拓営業を経験した後、2018年2月より事業企画部に所属。現在はマネージャーとして事業計画の達成に向けた企画やプロジェクト推進などを担当。
ピッチャーとしてマウンドに立ち続けてきた学生時代
──今回は、杉本さんのこれまでの人生を遡りながらお話を聞かせていただきます!
はい、よろしくお願いします。
──まず、幼少期や学生時代のお話から聞かせてください。
山口県岩国市で生まれ育ちました。
兄と妹がいて、兄は年子だったこともあり、まるでライバルのように競ってばかりでした。例えば、兄がバレーボールを始めたのですが、小学校に入学したタイミングで、自分も兄を追いかけるように始めました。ただ、バレーは小学2年生の時にやめてしまいました。
──バレーをやめたきっかけは何だったのでしょうか?
小学3年生の時から、野球を始めたことがきっかけでした。それからは、バレーよりも、どんどん野球の世界にのめりこんでいきました。バレーをやめたことは、自分の中では最初の大きな意思決定だったように思います。小さい頃からずっと兄と競ってきましたが、兄の真似をして同じ道に進まなくてもよいと思い、それからは、野球中心の生活が始まりました。
──野球はいつまで続けていたのでしょうか?
高校3年生の夏までです。それまでの僕の人生は、全て野球に懸けてきた、といっても過言ではないと思います。
──チームでは、どのような役割を担っていたのでしょうか?
小学生の時から、ずっとポジションはピッチャーでした。
少年団の時に、監督から言われた「ピッチャーがボールを投げて、はじめて試合が始まる。だからこそ、責任を持て。」という言葉を今でもよく覚えています。そして「その姿勢を周りの仲間たちに示して、信頼を築いていくように。」と言われたことも記憶に残り続けています。
──試合の時は、どのような想いでマウンドに立っていたのでしょうか?
一つ一つの試合に、絶対に負けたくないと思っていました。僕の根っこには、幼少期から兄と競い合っていた頃のマインドがあるのかもしれません。
中学に入学して野球部に入りましたが、ただ、その部活では、顧問の先生が野球未経験の方だったので、強くなるためには、自分たちで練習法を考え、試行錯誤を繰り返していかなければなりませんでした。自分たちで考えたメニューをこなしていく練習スタイルは、自分の性格には合っていたと思いますが、ただ、こうした環境で非連続の成長を遂げることは難しいと考え、高校は、家からは離れた強豪校を志望していました。
実際に入学した高校は、僕が中学生の時の甲子園出場校の一つでした。甲子園の試合は、小さい頃からテレビで観ていたので、必ずこの高校に入学したいと思っていましたね。
──実際に、その高校の野球部に入部してみていかがでしたか?
強豪校の中では珍しいのかもしれませんが、自分たちで練習メニューを決めたりと、主体性を重んじるカルチャーがありました。たとえどれだけ辛い練習であっても、自分たちが決めたメニューであれば、責任をもってやり遂げられる。いや、やり遂げなければならないと思いましたね。
同級生の中には、県外の有名チームから入学した人も多かったので、最初は焦りを感じました。ただ、そうした同級生と自分を比べるのではなく、甲子園に出場した上級生のことを見るようにしていました。自分が真に目指すべき「甲子園」というゴールだけを見据えて、視座を上げようと意識していたのだと思います。
青春を全て捧げた「夏」の終わり
──高校に入学して、一番最初の試合のことを覚えていますか?
はい。自分がピッチャーというポジションだったこともありますが、高1の春からベンチに入ることができました。3年生の先輩の代わりにマウンドに立つ経験もしたのですが、あまりのプレッシャーの大きさで、しばらくの間、イップスになってしまい投げられなくなってしまって。その夏、チームは再び甲子園に出場したのですが、その時は、僕はベンチに入ることができませんでした。
その後、当時の3年生が引退してからは、「誰よりも自分が頑張らないと」という気持ちが強くなりました。また、試合において大事な役割を担うピッチャーの自分が、このままプレッシャーに負けてはいられないと思いました。そこから気持ちを持ち直し、毎日のように練習を重ねていきました。
──高校2年生の夏は、どのような結果を迎えたのでしょうか?
春の大会で負けた高校と再戦したのですが、夏の大会でも敗れてしまい、甲子園に行くことができませんでした。同じ相手に2回も負けたのは、自分のせいだと思い込むこともありました。
とても悔しい思いをしましたが、ただ、「来年こそは、絶対に甲子園のグラウンドに立つんだ」という気持ちも湧き上がってきました。そして、先輩たちが引退し、最後の一年が始まる時、僕がチームのキャプテンを任されることになりました。
──キャプテンを任された時は、どのようなことを思いましたか?
最初は、自分がキャプテンを任されることになるとは思ってもいませんでした。というのも、ピッチャーは他の選手と練習メニューが異なることが多いので、一般的には、ピッチャーがチーム全体をまとめるキャプテンを任されるケースは多くありません。なので、自分が任されることになった時は驚きました。
僕をキャプテンに指名してくれた監督からは、「お前がもっと責任感をもって、チームの勝利にコミットして欲しい」というメッセージを受け取りました。チームの仲間も信頼してくれたからこそ、頑張らなければならないと思いました。
ピッチャーとしてマウンドに立ち続けた高校時代の1枚。
──そこから、最後の一年が始まったのですね。
はい、毎週のように練習試合を重ねていきました。
最後の年だからという焦りと、自分が頑張らないといけないという責任感を感じていたので、多少の無理をしていたかもしれません。当時は、ストイックにならなければ、チームが勝てないと思っていました。
そして、高校3年生の春、練習試合の中で、僕は肩を痛めていたにもかかわらず無理をしてボールを投げ、怪我をしてしまいました。その後の甲子園出場を懸けた夏の試合ではドクターストップがかかっていたのですが、それでも無理をして投げて、一回戦で地元の高校に負けてしまいました。相手のチームには、小学校の頃に一緒に野球をしていた人もいました。自分はわざわざ家から離れた強豪校に行ったのに、結局あっさりと地元の高校に負けてしまった。それが最後の夏の思い出です。
それまでの僕の人生においては、野球こそが全てだったので、あの時は、何もかもが終わったと思いました。
仲間と一緒に事業立ち上げに挑んだ第2の青春期
──残りの高校生活は、どのように過ごしたのでしょうか?
それまで野球に注いできた熱量を、全て受験勉強に向けました。一回戦で負けたことが悔しくてたまらなかったからこそ、自分の中のエネルギーを放出したかったのだと思います。それまでの人生で一番勉強して、どうにか志望していた大学に合格することができました。
受験期は辛かったのですが、勉強も野球と同じで、自分で立てた目標に対して、やるべきことを日々積み重ねていけば、結果となって報われることを学びました。
──大学の4年間は、どのようなことに打ち込んだのでしょうか?
いくつかの事業作りに挑戦しました。個人でネット広告事業などを手がけたりもしましたが、最も注力したのは、友人たちと一緒に起業して取り組んだテック系の教育事業でした。
──なぜ、自ら事業を立ち上げたのでしょうか?
大学に入るまで、僕は人生の全てを野球に懸けてきました。逆に言えば、それまでは、野球しか本気で打ち込めることがなかったんですよね。
ただ、東京の大学に行って、いろいろな価値観を持つ人と出会い、広い世界を知るなかで、自分自身の人生における選択肢と可能性が一気に広がった気がしました。その中の一つが事業作りで、その面白さにどんどん惹かれていきました。
──サークルやインターン、留学などではなく、事業作りに興味を持ったのはなぜだったのでしょうか?
僕の家族や親戚に経営者が多かったので、その影響があると思います。
また、大学に入って、起業やビジネス拡大という同じ目標に向かって必死になれる仲間と出会えたことも、事業作りに打ち込む大きなきっかけとなりました。僕はずっと野球部という「チーム」の中で生きてきたので、そうした仲間と一緒に、一人ではできないような大きなことを成し遂げたいという想いが、当時の原動力になっていたと思います。
東京から実家の山口までヒッチハイクした時の写真。
自らの選択肢と可能性を信じて、学び続け、変わり続ける。
──学生時代に自ら事業立ち上げを経験していた杉本さんが、ビズリーチに入社することになった経緯について教えてください。
友人と一緒に、自分たちでスタートさせた事業を継続していくという選択肢もありました。ただ、当時の自分たちは経験が浅く、このまま続けていても大きな事業拡大を目指すことは難しいと感じていました。それであれば、一度環境を変えてビジネスの経験をしっかり積もうと思い、就職活動を始めました。
ビジネスについて学ぶのであれば、まさに今成長中の会社がいい。また、豊富な経験を積んだ人や、エンジニアやデザイナーなど、様々な領域におけるプロフェッショナルが集まる会社がいいと考え、いろいろな会社について調べていました。
そんな中、ある就活イベントでビズリーチと出会いました。当時は、まだCMも放送されていない時期だったので、僕はブースに行くまでビズリーチという会社のことを知りませんでした。ただ、そのブースには学生の行列ができていて、成長しているITベンチャー企業であることを知り、興味を持ちました。
他にも、事業立ち上げ&グロースの経験を積める会社をいくつも見ましたが、最終的にビズリーチを選んだのは、まさに今、成長フェーズにあるこの会社であれば、自らの経験を通して学ぶことが多いと考えたからです。
また、ビズリーチには、「時代の変化に立ち向かうために、自ら変化し続けたい」「そのために、いつまでも学び続けたい」と考える人が集まっていると知ったことも、この会社を選んだ決め手の一つでした。
とりわけ、ビズリーチ主催のイベントに参加した時、社長の南(壮一郎)さんが話してくれた言葉が強く印象に残っています。「時代が絶え間なく変わるなかで、目の前に与えられる課題も常に変わり続ける。だからこそ、これからの時代を生き延びられるのは、変わり続けられる人、そして、そのために学び続けられる人である。」この話を聞いて、こうした価値観を持つ人が集まっているビズリーチであれば、学びや成長の機会が多いと考えました。
もう一つの決め手は、「インターネットの力で、世の中の選択肢と可能性を広げていく」という当時のミッションです。僕自身、東京に出て、同じ志を持つ友人と出会い、事業の立ち上げに挑戦することで、自らの選択肢と可能性が広がった経験があったので、この言葉に強く共感し、入社を決めました。
──2016年4月の入社後、杉本さんはビズリーチ事業部に配属されましたね。
はい、最初は、ビズリーチ事業の新規開拓営業チームに配属されました。
ただ実は、目の前の仕事に対するモチベーションが大きく下がっていた時期がありました。当時の自分は、「もっと新しい挑戦の機会が欲しい」と考えてばかりでした。受け身の姿勢のまま、一方的に会社に対して期待をしてしまっていたのだと思います。そして、そうした自分を変えることができずにいました。
そんな時に、当時の上司に相談したり、いろいろな先輩に話を聞くなかで、成長している人は、能動的に挑戦の機会を掴み取りにいっていることに気付きました。それからは、周りの環境や組織における改善点を自分なりに考えるようになり、一つ一つ改善策を練って上司に起案するようになりました。
そうして一つずつアクションを起こしていくなかで、単に個人としてやるよりも、組織の中で仕組み化したほうが大きなインパクトを出せることがたくさんあると考え、上司に相談したところ、事業企画部を兼務することになり、その後、正式に異動しました。
あの時、自らの想いをもって一歩踏み出せたからこそ、そして、上司や仲間たちが僕の挑戦を後押ししてくれたからこそ、僕は自分の殻を破ることができたのだと思います。もちろん、自分で決めたからには責任をもってやり切らなければならず、時には苦しい思いをすることもあります。ただ、自らの意志次第でいくらでも成長の機会を掴み取ることができるこの環境に感謝しています。
──今後、ビズリーチ、もしくはVisionalで実現したいことはありますか?
入社当初は、この会社で経験を積んで、いつかはまた起業したいと考えていたのですが、それはあくまで一つのHowでしかないことに気付きました。大切なのは、ビジネスを通して何を成し遂げたいのかということであって、起業というのは手段でしかないんですよね。
僕は今、入社して5年目になりますが、今のビズリーチが掲げる「すべての人が『自分の可能性』を信じられる社会をつくる」というミッションに共感しているからこそ、一つ一つの仕事に意義を感じながら働き続けることができています。それはこれからも変わらないと思います。
そして働くことを通して、自分自身の新しい可能性や選択肢を見出していきたい。そして、その実現のために、学び続け、変わり続けていきたい。この会社には、同じ想いを持つ仲間が集まっているからこそ、これからも、たとえ苦しいことがあってもやり切れると思っています。
──本日は、お時間をいただきありがとうございました!
こちらこそ、ありがとうございました!
この記事の執筆担当者
松本 侃士/Matsumoto Tsuyoshi
1991年生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。2014年、音楽メディア企業に新卒入社し、音楽雑誌・ウェブサイトの編集や、採用などを経験。2018年、株式会社ビズリーチへ編集者として入社。現在は、人財採用本部・採用マーケティンググループで、「ALL VISIONAL」の運営などを担当している。
関連記事
「All Visional」Twitterアカウントは、こちら。