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亡き父のために――。CSO 枝廣、揺るぎなき人生哲学を語る。

今回は、2020年2月より、株式会社ビズリーチのCSO(Chief Strategy Officer)を務める枝廣憲さんに「パーソナルヒストリーインタビュー」を行いました。

半生を振り返りながら、枝廣さんが大切にしている価値観や信条に迫りました。

※本記事の掲載写真は、2019年10月に撮影したものです。


プロフィール

枝廣 憲/Edahiro Ken
一橋大学を卒業後、2004年に株式会社電通に入社して営業職に従事。大手化粧品メーカーやプロ野球球団、製薬会社のマーケティングなどを担当。大手企業を担当しながらもスタートアップのマーケティングプロジェクトを立ち上げ、社長賞や月間MVPなどを受賞。2012年、株式会社gloopsに転職して、マーケティング本部長、後にCMOに就任。サンフランシスコへの転勤時の出会いをきっかけに、King Digital Entertainmentの日本法人の立ち上げへの参画を決意し、2014年、King Japan設立と同時に代表取締役社長に就任。パズルゲーム「キャンディークラッシュ」などのプロダクト開発・マーケティングを統括。2019年6月、株式会社ビズリーチへ入社。2020年2月、現職に就任し、プロダクトとマーケティングを軸とした事業戦略を統括。


17歳で、5年刻みの人生のマイルストーンを設計

──今回は、枝廣さんがどのような人であるのか、読者やVisionalの仲間たちに伝えるために、これまでの人生を遡りながらお聞きしたいと思っています。よろしくお願いします!

記事として取り上げてもらえるような者ではないですよ。それでもよければ、よろしくお願いします。

──まずは、学生時代に遡ってお話をお聞きしていきます。学生時代を振り返って、自分はどのような学生だったと思いますか?

高校生の頃は、とにかく尖っていましたね。その頃は、学校へ行かなくてもいいと思っていました。「自分の人生の幸せは、勉強じゃ決まらない」と決め込んでいたんです。でも途中で気付いたんですよね、人が当たり前にやっていることもできないのに、偉そうに語るもんじゃないと。

──それに気付いたきっかけは何だったのでしょうか?

高校2年生で留年の危機に陥り、母を泣かせてしまった時ですね。

この話をする前に、もう少し遡って説明させてください。僕は、小学校1年生の時に父を亡くしているんです。母が働きに出て、家では祖母が母に代わって世話をしてくれました。

先ほども少しお話ししたように、高校生の時は半分ぐれていて、「授業なんて関係ない、テストで点数取れればいいだろ」といって学校をさぼってばかり。それぞれの授業の単位取得に必要な出席回数を計算して、ぴったり3分の2+1回になるよう出席していました。

ところが思わぬハプニングが起きて、古文の最後の授業で、先生が風邪で欠席してしまうんです。そうなると、どうなってしまうかというと、ギリギリの出席日数で単位を取得するという僕の計画が崩れてしまいます。もちろん学校側からは留年させると言われてしまいました。「ふざけるな、先生が休んだせいだ!」と反論したわけですが、母が呼ばれて三者面談が開かれました。

そこで、自分をかばって泣く母を見て、深く反省したんです。

父の死を乗り越えながら懸命に自分を育ててくれた母を、これ以上悲しませてはいけない。誰かを不幸にする人生を送ってはいけないんだ、と。

そして、泣く母を見て思いました。亡くなった父の心臓が僕についている。父が生きるはずだった時間を、僕は背負っているのだと。だからこそ、誰よりもこの人生を濃く生きなければいけない。

その時に気持ちを新たにして、これからどう生きるべきか考えました。

具体的にいうと、5歳刻みで人生のマイルストーンを設定したんです。20歳で一流大学、25歳で一流企業、30歳で独立、40歳で引退。いつかは、父に誇れるような立派な人間になると心に決めました。

そして、これを実現するためにどうしたらいいのか徹底的に考え、行動し、偏差値が全然足りていない状態から一気に挽回し、一橋大学に入学しました。社会に出てからも、将来的に独立するためには、どのような経験を積むべきかを明確にイメージしながら仕事に向き合い、ありがたいことに電通ではいくつも賞を頂きました。その経験があったからこそ、gloops、King Japanでのキャリア、そして今の自分があるのだと思います。

もちろん限界はあるかもしれませんが、マイルストーンを設計して、逆算して、行動する。この人生哲学は、今も変わりありません。

──そのマイルストーンに沿って人生を歩むことは、決して、容易いことではなかったと想像できます。

そんなに我武者羅に頑張ってきたわけではないですよ。人間はさぼる生き物だし、そういう自分の弱い一面も受け入れています。

ただ僕は、努力のクオンティティ(量)だけではなく、クオリティ(質)には強くこだわっています。分かりやすい例を挙げると、漢字を覚えるために、同じ漢字をひたすら漢字学習帳に一万回書いたところで、あまり意味はありませんよね。成功・成長のメソッドは、実は違うところにあるわけです。

何をすれば、自分の価値が上がるか。どのようにすれば、社会に対して価値を発揮できるか。努力の方法は、誰よりも深く考えるようにしています。

また、17歳の時、ずっと母親に代わり世話をしてくれた祖母が亡くなりました。小1の時に父を亡くしていたので、僕は大人になるまでに2人の大切な人の死に向き合ってきたわけです。そうした経験を通して、「人生はいつか終わるものだ」ということを、同年代の人たちよりも遥かに早く学んだという認識があります。だからこそ、時間に対しての意識は、他の人より厳しいかもしれません。あらゆる物事において、いつまでに何をやるか、デッドラインを定めることを意識しています。


経営者としての道を歩むか、引退か。それとも、新たな挑戦をするか。

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──では続いて、枝廣さんがビズリーチにジョインするに至った経緯についてお聞きしていきます。枝廣さんは、新卒で電通に入社後、2012年にgloopsに転職、マーケティング本部長、後にCMOに就任していますね。

時系列で振り返ると、ビズリーチとの出会いのきっかけは、2013年、経営者カンファレンスで、南(壮一郎)さんと会ったことでした。その後、僕が2013年末にgloopsを辞める時、共通の知り合い経由で、初めてしっかり話す機会をもらったんです。

はじめに、南さんから会社のビジョンを1時間ほど、次に、同じ部屋に永田(信)さんが来て、マーケティングや経営について同じく1時間ほどお話しました。その後、(竹内)真さんが来て、「テクノロジーの未来はどうなるか」といった話題を2時間以上、延々と話し続けましたね。今考えればほぼ軟禁だったと思うのですが、楽しすぎて気付いたら2時間も話していたのを良く覚えています。

その時は、こんなにも優秀でおもしろい人が揃っている会社なんだ、と純粋に驚きました。話を聞く前は、ビズリーチという会社をあまり把握していませんでしたが、南さんの話を聞いて、質実剛健な経営スタイルの会社だなと。

──そのタイミングでのキャリア選択としては、枝廣さんは、King Japan立ち上げに参画し、経営者としてのキャリアをスタートさせましたね。

当時ありがたいことに、ビズリーチからも声を掛けていただいていたのですが、経営者として歩むまたとない機会だと思い、King Japan立ち上げの道を選びました。

その後も、南さんとは友人として定期的にコンタクトを取っていました。その中で、南さんには何度も助けられてきました。

ゼロから法人を立ち上げることは、想像を遥かに超えるほどに大変でした。オフィスがない、人事・財務・総務・法務、全てのバックオフィス機能もない、採用やPRを担当するスタッフもいない。とにかく駆けずり回りながら、マーケティング計画を練り、プロダクト改善を行い、事業PLを引いて。1日2時間睡眠の日々でした。もちろん、今となっては良い経験ですが。

その時に南さんが、「僕も経験したことある」「大変だろうから、ビズリーチとして協力させて欲しい」と力を貸してくれたのです。ビズリーチ広報室の(田澤)玲子さんがKing Japanにきて、メディアの方を繋いでくれたり、インタビューに同席してくれたりしました。そのおかげで、King Japanはポジティブな形でスタートダッシュを切ることができたのです。

その時、これは一つ借りを作ってしまったな、という思いがありました。

──その後、King Japanの事業を譲渡することになります。

はい、親会社の意向でした。事業は好調だったからこそ、悔しかったですね。

その旨を南さんに連絡したところ、長文の労いのメッセージが届きました。そして、その文面の最後には、「で、明日空いてる?」と書かれていました。要は、会って話そうということですよね。今後の人生の参考にできればなという思いでお会いして、キャリア相談にのってもらいました。ただその時は、正直に、引退も考えていることを話しました。

その後、多田(洋祐)さん、永田さんからも連絡をもらい、何時間もお話を重ねました。そして最後が、真さん。事業の譲渡後、僕は家族のために時間を使うと決めていたので、とにかく忙しい日々が続いていたんです。真さんから連絡を頂いた時も、「空いているのは休日のこの日だけで、しかも、東京から1時間半かかる場所にいます」と返信したら、即答で「行きます」と。その時は、さすがに心が動きました。

経営陣のみんなが、本気で僕に希望を寄せてくれている。いつしか、だったら、その気持ちに本気で応えたいと思うようになっていました。それに、King Japanの時の借りも返せていないという想いも心のどこかにあったのかもしれませんね。

──ビズリーチへのジョインを決意した時、どのような想いを抱いていましたか?

今から振り返ると、King Japanでは代表取締役という立場だったので、次のキャリアとして、他の会社の経営者という選択肢もありました。ただ、苦い経験もあり、同じような雇われ社長はやりたくない。だからこそ、その時は引退も考えていたのです。

いろいろな選択肢があるなかで、それでも僕のなかには、「社会に価値があることをやりたい」という強い想いがありました。ビズリーチへのジョインを決めたのは、この会社なら、社会のエコシステムを変えられると確信したからです。


変革者として、新生・ビズリーチを導いていく

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──枝廣さんが17歳の時に定めたマイルストーンでは、「40歳で引退」とありましたね。

若いころは、おじさんになり、若者の感覚が分からなくなっても幅をきかせてしまうのは嫌だと考えていました。だからこそ、当時は40歳で引退したいと思っていたんです。僕は現在、38歳なので、当時に引退を考えていた40歳が目前に迫っています。

ただ、やはりこのタイミングで引退するよりも、自分にとっても周りにとっても価値のあることをやれるという筋道が見えたので、40歳から先の新たなマイルストーンを立てる決意をしました。当時定めたマイルストーンを撤回する決断をしたのは、他でもなく、ビズリーチと出会ったからです。

──私たちは、2020年2月、Visionalとして新しいスタートを切りました。同じタイミングで、枝廣さんは、新生ビズリーチのCSOに就任されましたね。最後に、意気込みを教えてください。

プロダクトとマーケティングを軸とした経営戦略を通して、ビズリーチを、日本を背負えるような会社にする。この一言に尽きます。

僕は、創業メンバーたちと比べると、後からビズリーチにジョインしているので、「この会社の変革者としてリードしていく」ぐらいの覚悟でやらないといけないと思っています。南さん、永田さん、真さん、多田さんをはじめ、みんなが僕に期待してくれていることは、まさに変革だと思うので、全力でその期待に応えていくつもりです。

今、ビジネス界では、不況が目の前まで来ていますが、だからこそ、サービスの質で競合を凌駕できるタイミングだと思うんですよ。今僕がビズリーチのサービスを大きく進化させることができれば、ビズリーチを名実ともにNo.1にしたいという目標を、もしかしたら早めに実現できるかもしれません。

──本日は、ありがとうございました!

こんなお話でよかったですかね、ありがとうございました!


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取材後、枝廣さんが主導したプロジェクトについて、プレスリリースを発表し、多くのメディアに取り上げていただきました。

ビズリーチにおけるAIのビジネス活用を推進する枝廣さんが、立教大学様とビズリーチの、AIの社会実装を目的とした産学連携に伴い、その背景や想い、今後の展開などについて取材を受けました。ぜひ、合わせてご覧ください。


立教大学とビズリーチがAIの社会実装を目的とした産学連携

ビズリーチと立教大がAIの社会実装に向けてタッグ、「求職者の価値観」の発見目指す


この記事の執筆担当者

松本 侃士/Matsumoto Tsuyoshi
1991年生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。2014年、音楽メディア企業に新卒入社し、音楽雑誌・ウェブサイトの編集や、採用などを経験。2018年、株式会社ビズリーチへ編集者として入社。現在は、人財採用本部・採用マーケティンググループで、「ALL VISIONAL」の運営などを担当している。


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