人生は、挑戦の連続。ビズリーチCTO 外山が、仲間のために成し遂げたいこと。
今回は、2020年2月より、株式会社ビズリーチのCTO(Chief Technical Officer)を務める外山英幸さんに「パーソナルヒストリーインタビュー」を行いました。半生を振り返りながら、外山さんが大切にしている価値観や信条に迫りました。
※トップ写真は、2019年10月、海外の新卒採用のために、インド工科大学カラグプール校に行った際に撮影したものです。
プロフィール
外山英幸/Toyama Hideyuki
2005年、Web制作会社に入社。フルスタックエンジニアとして開発を担当。その後、フリーランスとして、NTTデータなどで開発・運用・保守を経験し、2011年、株式会社BookLiveに入社。エンジニアマネージャーやアーキテクトとして、創業期から売り上げ100億円以上の規模に至るまでの様々なシステム開発を主導。2017年、株式会社ビズリーチに入社し、キャリトレ事業部やビズリーチ事業部のプロダクト開発部長を務める。2020年2月、現職に就任。
おいしい食事とお酒を楽しむことが趣味。
仲間たちと、全力で挑戦したい。学生時代に抱いた働くことへの憧れ。
──今回は、これまでの人生を遡りながら、外山さんが大切にしている価値観や信条に迫っていきたいと思っています。よろしくお願いします!
よろしくお願いします!
──まず、幼少期や学生時代の話から聞かせてください。当時を振り返って、どのような子どもだったと思いますか?
どのような環境でも、何事にも無邪気にチャレンジするようなタイプの子どもでした。
というのも、小学生の時に鹿児島県内で2回転校を経験しているんですよね。強制的に環境がリセットされる経験を重ねてきたことが、自ずとそうした性格に繋がっているのだと思っています。
──とはいえ、初めての転校の時は、不安な気持ちはありませんでしたか?
確かに、小学3年生で初めて転校をした時は不安でした。親友もいたし、仲の良い友達もたくさんいたからこそ、寂しかったですね。何より、今と違って、一度距離が離れてしまうと気軽に連絡を取ることができませんでしたから。
ただ、小学校5年生で2回目の転校をした時は、子どもながらに、割り切っていましたね。「また新しい環境で挑戦すればいい」というように、前向きな気持ちでした。
高校卒業後の進路についても、周りの友人は鹿児島にとどまる人が多かったのですが、僕は早く東京に行きたいと思っていました。実際、僕が通っていた高校から東京へ行ったのは、僕含めて数名だけでしたが、不安な気持ちはありませんでしたね。
──当時、東京へ行きたいと思っていたのはなぜだったのでしょうか?
祖父の影響が大きいです。
僕の祖父は、複数店舗の飲食店を経営していた人で、バブル崩壊以降は借金を抱えて苦労する姿も見てきました。ただ祖父は、当時小学生だった僕に「全力でやり切ったから、後悔はない」と誇らしげに仕事の話を何度もしてくれたんですよね。そんな祖父に影響を受けて、自分も、一度きりの人生、やりがいのある仕事に打ち込みたいと思っていました。
だからこそ、興味を持っていたプログラマーに挑戦するために、東京へ飛び出しました。
──プログラマーという職業に興味を持った理由について教えてください。
きっかけは、小学生の時に、セガのゲーム開発現場に迫るドキュメンタリー番組を観たことでした。4~5人のチームで、デスクの前に寝袋を置いて、ずっと泊まり込みで新作のゲームを開発している姿が、強く印象に残りました。
それぞれ得意領域が異なる仲間が集まって、お互いに背中を預け合いながら、同じ目標に向かって打ち込む姿がかっこよくて。そうした働き方に憧れを抱きました。
また、純粋にゲームが好きだったので、中学の時から、将来はゲームプログラマーになりたいと思っていて、鹿児島県内の進学校で唯一、情報系のコースがある高校に進学しました。
──ゲームには、いつから興味を持っていたのでしょうか?
小さい頃から、いわゆるオタク気質で、小学生の時からゲームやプログラミングに熱中していました。
ただ一方で、自分の二面性も意識していて。実は高校の時は、公園でスケボーをするようなちょっとやんちゃなグループに属していたんですよ。本当は家でずっとゲームやプログラミングに打ち込んでいたかったのですが、外から見られる自分も強く意識していたんですよね。今から思えば、それは小学生の時に転校を重ねるなかで身についた、新しい環境に上手く適応するための処世術だったのかもしれません。
ただ家に帰ると、いつまでも一人でゲームやプログラミングに没頭するタイプでした。当時、母親からは、「彼女ができるのか」と心配されるくらい熱中していましたね。
──高校生の時は、次のキャリア選択についてどのように考えていましたか?
通っていた高校が進学校だったので、周りの友達は、「とりあえず大学に行こう」というタイプが多かったです。ただ僕は、祖父の影響もあり、働くことに対して人一倍こだわりが強くて。今から考えると大学へ行っておけばよかったとも思いますが、当時はとにかく、専門学校で知識やスキルを得て、とにかく早く仕事がしたいと思っていたんですよね。
高校3年生の時、ゲームプログラミングが学べる専門学校を探して親に相談したのですが、初めは父からも母からも許可をもらえませんでした。ただ僕は頑固なところがあって、センター試験の願書を提出せずに、つまり退路を断って「バイトして東京に行く」と宣言したんです。
もちろん、父も母も反対しましたが、最終的に父に僕の覚悟が伝わったんでしょうね。12月に、父が東京の専門学校の願書を取り寄せて渡してくれたんです。
父とはそれまであまり会話をすることはなかったのですが、今思えば、父は、僕が家でプログラミングに打ち込む姿をしっかり見ていてくれたのだと思います。僕はその専門学校の願書を受け取った時、「お前なら東京に行ってがんばるだろう」という父からの信頼のメッセージを感じ取りました。その時以来、僕は「尊敬する人は誰ですか?」と聞かれたら父と答えていて、あの時に背中を押してもらえたことに、今でも深く感謝しています。
──専門学校に通っている時は、どのようなところで働きたいと考えていましたか?
はじめはゲーム業界で働きたいと思っていましたが、当時は既に、数百名規模の分業体制で一つのゲームを作る時代になっていることを知りました。一方、当時のWeb業界は過酷であるという話を耳にしていたのですが、たとえ過酷であったとしても、少人数の仲間たちと一緒に挑戦し、切磋琢磨できる環境で働きたいと思い、Web業界に入りました。
定例の部署横断ミーティングの集合写真
0からの再スタート。次の挑戦の場としてビズリーチを選んだ理由。
──外山さんは、Web制作会社、フリーランスを経て、2011年に、BookLiveに入社しましたね。
はい。エンジニアマネージャーやアーキテクトとして、様々なシステム開発を担当しました。速い開発スピードで、とにかく数多くのプロダクト開発を行ってきたという自負があります。
そしてある時、BookLiveで一周やりきったという感覚を覚えました。その先のキャリアパスも見えていたのですが、それでも、「もう一回死ぬほど開発に打ち込んでみたい」という気持ちが湧き上がってきました。
BookLiveではマネジメント経験を積んだり、経営の知識も蓄えていましたが、そうした自分の能力に再現性があるのか確かめたいと思い、全く新しい環境で、0から再び挑戦する決意をしました。
──ビズリーチと出会ったきっかけについて教えてください。
転職活動を始めた当初、数人〜数十人規模のスタートアップ企業の求人を探す目的で、一人の求職者として「ビズリーチ」サービスに登録しました。すると、ビズリーチ社からスカウトが届いたんですよね。
面談の場で、エンジニア採用担当の磯谷(薫)さんに「小規模のスタートアップに行って、自分の力を試したい」という話をしたら、「ビズリーチは1,000名を超えた規模の会社ではあるけれど、挑戦の機会は数多くある。」と話してくれて。その話を聞いて自分の中の認識が変わりました。
その後、古野(了大)さん、鳥海(健)さん、鈴木(康弘)さんにも話を聞いたのですが、3人ともプロダクトへの想いを熱く語ってくれて。それだけでなく、事業戦略についても話してくれて、テクノロジーとビジネスが密接に連動していることに驚き、話を聞くたびに、少しずつビズリーチに惹かれていきました。
最後は、磯谷さんの「外山さんの想いを、ビズリーチなら叶えられる。」という言葉に背中を押され、次の挑戦の場として、ビズリーチを選ぶ覚悟を決めましたね。
──実際に入社してみて、ビズリーチの開発組織についてどのようなことを感じましたか?
信頼できる仲間に恵まれていると思っています。自分にはない強みを持っている人が多く集まっていて、日々新しく学ぶことばかりです。
たとえば、非常に高い水準でPDCAを回してくれるプロダクトマネージャーの酒見(憂)さんだったり、プロダクトとビジネスの接続を主導してくれる枝廣(憲)さんだったり。また、品質やセキュリティなどの守りの領域で背中を預けられるCIO・園田(剛史)さんやCISO・若井(大佑)さんをはじめとする心強い仲間たちがいるからこそ、僕は今、CTOとしての仕事に専念することができています。また、多様な強みを持つ仲間たちが集まっている組織だからこそ、新しいイノベーションが生まれやすいと思っています。
そして、新卒入社の社員をはじめ、ポテンシャルが高い20代の社員も数多く集まっていることに日々驚かされています。とても自律性が高く、何より、仲間の挑戦を快くサポートする人が本当に多い。ビズリーチのエンジニア組織には、「仲間のために」「組織のために」というカルチャーが深く浸透していると思っています。
──そうしたカルチャーが浸透している理由について、どのように考えていますか?
園田さんも語っていたように、この会社が立ち上がった時から、既に「仲間」に敬意を払うカルチャーが根付いていて、それがしっかりと継承され続けているのではないかと思っています。
もちろん、ビズリーチのCTOという立場で俯瞰して見れば、事業ごとに、細かい特性の違いはあります。一つの会社の中にそうした多様な開発組織が共存していることも、今のビズリーチの面白さだと思っています。
Visionalのテックボードメンバーの集合写真。左から、若井大佑さん、西山創さん、竹内真さん、外山英幸さん、園田剛史さん。
仲間の成長が、プロダクトの成長、事業の成長に繋がる。
──他に、ビズリーチのエンジニア組織で働いていて思うことがあれば教えてください。
個人の成長を強く意識している組織だと思っています。
事業の価値を上げるためだけにタスクをアサインするのではなく、適切な成長機会を提供することによって、一人一人のエンジニアの市場価値を上げていく。そして、個人の成長や自律が、成熟度の高いチームの組成に繋がって、最終的にプロダクトの成長、事業の成長に繋がる。今のビズリーチは、こうした仕組みがしっかり機能していると思っています。
──最後に、ビズリーチのCTOとしてのミッションを教えてください。
「プロダクトの生産性を高める」という言葉に集約されると思います。そうすることによって、将来的に実現できる戦略の幅を広げ、そして実現するスピードを上げていく。これから挑戦していかなければいけないことは数多くありますが、事業のため、そして会社のために、まず何よりも、プロダクトの生産性を高めることに注力していきます。
そして先ほどの話にも通じますが、これだけ優秀な仲間に恵まれているからこそ、一人一人の市場価値を上げていきたいと思っています。
僕自身、社会人になる前のITバブル崩壊や、その後のリーマンショックを経験していて、「会社に守られていてはいけない」「自分のことは自分で守れるように、市場価値を上げ続けていかないといけない」ということを学びました。
逆に、一つずつ挑戦を重ね、絶え間なく成長を続けていくことによって、自分自身の可能性が広がっていくんですよね。だからこそ僕は、一緒に働く仲間たちに、これから先も広い世界で戦い続けることのできるエンジニアになって欲しいと願っています。
──今日は、ありがとうございました!
仲間たちへの想いを上手くまとめてもらえたら嬉しいです、ありがとうございました!
この記事の執筆担当者
松本 侃士/Matsumoto Tsuyoshi
1991年生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。2014年、音楽メディア企業に新卒入社し、音楽雑誌・ウェブサイトの編集や、採用などを経験。2018年、株式会社ビズリーチへ編集者として入社。現在は、人財採用本部・採用マーケティンググループで、「ALL VISIONAL」の運営などを担当している。
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